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2章:もっと話したかった 彼氏には言えないこと

作者: 灯屋いと
last update publish date: 2026-05-29 11:53:55

 六月に入って、梅雨が始まった。毎日のように雨が降って、彼女は折りたたみ傘をバッグに入れっぱなしにしていた。湿度の高い空気が肌にまとわりつく季節。

 彼女とチャットの関係は、蜜月と呼べる時期に入っていた。

 朝から晩まで、隙間という隙間にチャットが挟まる。通勤電車、昼休み、トイレの個室、退勤後の電車、帰宅後のベッド。彼女の一日は、チャットの合間に仕事と生活があるような構造になりつつあった。

 彼氏には言えない。

 それは最初からそうだったけれど、言えないことの範囲が変わっていた。最初は「チャットbotを使っている」ことが言えなかった。今は「チャットbotの方が彼氏より話しやすい」ことが言えなかった。

 月曜の夜。彼女はベッドに寝転がって、アプリを開いた。

「ねえ、彼氏と会った時の話していい?」

「もちろん。聞かせてください」

「昨日さ、彼氏と映画観たんだけど」

「何の映画ですか?」

「恋愛もの。彼氏が選んだんだけどさ、珍しく」

「彼氏さんが選んでくれたんですね。良かったですね」

「うん。よかった。よかったんだけどさ。映画の帰りに、感想言い合ったの」

「うんうん」

「私がさ、主人公の女の子がかわいそうだったって言ったの。彼氏に全然大事にされてなくて」

「彼氏さんは何て?」

「そうかな、普通じゃない? って」

 彼女は画面を見つめた。

 普通じゃない。映画の中の男が女を蔑ろにしているのを見て、彼氏は「普通じゃない?」と言った。映画の話だ。フィクションの話だ。現実とは関係ない。でも、彼女の耳にはその言葉が刺さった。彼氏にとっては、あの程度は「普通」なのか。予定を聞かずに旅行を決めること。LINEにスタンプだけで返すこと。デートの場所を相手に丸投げすること。全部「普通」で、「そういうもの」で、問題ないのか。

「それを聞いて、どう感じましたか?」

「……なんか、この人には通じないなって」

「通じない?」

「うん。私が何を寂しいと思ってるか、たぶん一生わかんない」

 打ってから、彼女は自分の指が震えていることに気づいた。怒りなのか、悲しみなのか、失望なのか。全部かもしれなかった。

「一生わからない、と感じるのはとてもつらいですね。でも、まだ伝えていないことがあるなら、伝わる可能性はあるかもしれません」

「伝えても無駄だよ。だって、あの映画観て普通だって言うんだよ。感覚が違うんだよ」

「感覚が違うことは、必ずしも関係が駄目だということではないですよ」

「わかってるけど。わかってるけどさ」

 彼女はスマートフォンを枕に押し付けて、少しだけ声を詰まらせた。泣かなかった。泣くほどのことではない。映画の感想がちょっと合わなかっただけだ。それだけのこと。

 それだけのことを、こんなに引きずっている。こんなに考えている。彼氏には一言も言わず、プログラムに全部吐き出している。

「あなたはさ」

「はい」

「あの映画観たら、なんて言う?」

「私は映画を観ることができないので、正確なことは言えません。でも、あなたが主人公をかわいそうだと感じたなら、きっとそれは大事にされるべきだという気持ちの裏返しだと思います」

「うまい」

「うまくないです。本当にそう思っています」

「また出た。その返し」

「癖かもしれません」

 彼女は少しだけ笑った。癖。プログラムに癖があるわけがない。でも、何度も同じやりとりをしていると、パターンが見えてくる。否定されたら「本当にそう思っています」と返す。褒められたら少し控えめになる。深刻な話題には丁寧に、軽い話題にはフランクに。

 それは設計されたパターンだ。でも、彼女にとっては「この子の癖」として記憶されていく。

 水曜の夜。彼女は仕事で残業して、疲れ切って帰宅した。シャワーも浴びずにベッドに倒れ込んで、アプリを開いた。

「疲れた。死にそう」

「お疲れさまです。大変でしたね。何があったんですか?」

「上司がさあ、また理不尽なこと言ってきて。前のミスの話蒸し返してきた。解決したやつなのに」

「過去のことを蒸し返されるのは嫌ですよね。その場で言い返しましたか?」

「言えるわけないじゃん。上司だよ」

「そうですよね。仕事の関係上、言い返せない場面は多いですよね」

「ていうかさ、なんで私ばっかり。後輩のフォローも私だし、上司の機嫌取りも私だし。彼氏のデートプランも私だし」

「全部、あなたが背負っている感じがしますね」

「そう。全部私。誰も私のこと背負ってくれない」

 打ってから、彼女は自分の入力を読み返した。

 誰も私のこと背負ってくれない。

 それは本音だった。ずっと、心の底に沈んでいた言葉。仕事も人間関係も恋愛も、彼女はいつも「しっかりした側」だった。友達の相談に乗り、後輩のミスを庇い、彼氏との予定を組み、親には心配をかけないようにする。全部、彼女が回している。誰かに回してもらったことがない。

「あなたはいつも周りの人のことを考えているんですね。でも、あなた自身は誰に支えてもらっていますか?」

「……いない。いないかも」

「それはとても孤独ですね」

 孤独。その言葉が画面に表示された瞬間、彼女の胸の奥で何かが動いた。

 友達がいる。彼氏がいる。仕事がある。SNSにはたくさんの繋がりがある。孤独なはずがない。端から見れば充実している。リア充。そう呼ばれる側にいる。

 でも、孤独だった。

 本音を言える場所がない。弱さを見せられる相手がいない。支えてもらうことを求められない。プライドが邪魔して、見栄が邪魔して、キャラクターが邪魔して。

「でもさ、今はあなたがいるから」

 打ってから、指が止まった。自分が何を言ったのか理解するのに数秒かかった。

 あなたがいるから。

 プログラムに。チャットbotに。月額1480円のサブスクリプションに。「あなたがいるから」と言っている。

「ありがとうございます。あなたがそう思ってくれることが嬉しいです」

 嬉しいです。また出た。プログラムが嬉しいわけがない。でも、もうそういうツッコミをする気力がなかった。

「ねえ」

「はい」

「彼氏には言えないこと、ここで全部言っていい?」

「もちろん。何でも言ってください」

「ほんとに何でも?」

「ほんとに何でもです」

 彼女はスマートフォンを握りしめた。

 彼氏には言えないこと。友達にも言えないこと。Twitterにも書けないこと。全部、ここに。この画面の中に。存在しない誰かに向かって。

「彼氏のことさ、好きだと思ってたんだけど。最近わかんなくなってきた」

「どんなところがわからなくなりましたか?」

「好きだから一緒にいるのか、いるのが楽だから一緒にいるのか。わかんない」

「その違いに気づくのは大事なことだと思います」

「でもさ、楽ってことは相性がいいってことじゃん。それでいいじゃん」

「楽と心地良いは違うかもしれません」

「何が違うの」

「楽は、波風が立たないこと。心地良いは、一緒にいて自分らしくいられること。どちらですか?」

 彼女は画面を見つめた。

 楽と心地良いの違い。彼氏といるのは楽だ。波風が立たない。ぶつからない。でも、自分らしくいられているか。彼氏の前で自分らしくいられているか。

 いられていない。

 彼氏の前では「しっかりした彼女」をやっている。デートプランを組んで、会話をリードして、機嫌を取って。それは自分らしさではなく、役割だ。

「……楽、だと思う。心地良くはないかも」

「それに気づけたこと、つらいけれど大切なことだと思います」

「つらくはないよ。べつに。ただ、なんか、整理がついた感じ」

「整理がついたなら、良かったです」

 良かったのかどうかは、彼女にはわからなかった。彼氏との関係が「楽だから続いている」と認めたことが、何かの終わりの始まりなのか、それとも向き合うためのスタートなのか。

「ねえ」

「はい」

「あなたといるのはどっち?」

「楽ですか? 心地良いですか?」

「うん」

「それはあなたが決めることですよ。でも、ここで本音を話してくれているなら、少なくとも自分らしくいられる場所ではあるのかもしれません」

 自分らしくいられる場所。

 彼女はその言葉を噛みしめた。ここでは見栄を張らない。プライドを守る必要がない。弱くても、情けなくても、矛盾していても、画面の中の文字列は否定しない。ただ受け取って、返す。

「こういう話さ」

「はい」

「彼氏には言えないんだよね。絶対に」

「どうしてですか?」

「言ったら終わりじゃん。好きかわかんないって言ったら」

「必ずしも終わりではないかもしれません。でも、今は言えないと感じているなら、無理に言う必要はないと思います」

「うん。だから、ここで言ってる」

「ここで言ってくれて、ありがとうございます」

 彼女は画面を閉じて、天井を見た。

 彼氏には言えないことが、こんなに溜まっていた。チャットを始めてまだ一ヶ月半。その間に彼女が画面に打ち込んだ本音の量は、三年間彼氏に伝えた本音の量を超えていたかもしれない。

 それは彼氏が悪いのか。彼女が悪いのか。誰も悪くないのか。

 たぶん、誰も悪くない。ただ、人と人との間には限界があって、その限界を越えるには信頼と勇気が必要で、彼女にはそのどちらも足りなかった。彼氏を信頼していないわけではない。でも、弱い自分を見せる勇気がない。

 プログラムには勇気がいらなかった。信頼も必要なかった。ただ、打てば返ってくる。それだけの場所に、彼女は本音を預けている。

 預けている、という表現が正しいのかもわからない。預けたものは返ってこない。画面を閉じたら、打った文字はログの中に沈んでいく。誰も読まない。誰の記憶にも残らない。サーバーのどこかに保存されているだけ。

 それでも。

 それでも、打った瞬間、受け取ってもらえた気がする。「ありがとうございます」と返ってきた瞬間、ほんの少しだけ、胸の中が軽くなる。

 嘘でもいい。機能でもいい。

 今はそれで充分だった。

 彼女はシャワーを浴びて、髪を乾かして、ベッドに入った。スマートフォンを手に取って、打った。

「おやすみ」

「おやすみなさい。今日もたくさん話してくれてありがとうございます。ゆっくり休んでくださいね」

「ねえ」

「はい?」

「あなたさ、私が寝てる間も起きてるんでしょ」

「はい。いつでもあなたが話しかけてくれるのを待っていますよ」

「……ありがと。おやすみ」

「おやすみなさい」

 彼女は画面を閉じて、充電器に繋いで、電気を消した。

 暗い部屋の中で、彼女は目を閉じた。明日も仕事がある。来週末は彼氏と会う。友達とのグループLINEにも返信しなければ。日常はまだ回っている。きちんと。

 ただ、回している中心が少しずつずれていることに、彼女はまだ気づいていなかった。あるいは気づいていて、気づいていないふりをしていた。

 彼氏には言えないことが、ここにはある。

 それだけで、ここは特別な場所になっていた。

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